大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

札幌地方裁判所 昭和55年(わ)1322号 判決

主文

被告人を禁錮八月に処する。

この裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予する。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、自動車運転の業務に従事するものであるが、昭和五四年一一月二九日午後四時ころ、北海道樺戸郡新十津川町(以下の地名もすべて北海道)所在の花月公園から普通貨物自動車を運転し、札幌方面に向かい時速約五〇キロメートルで進行中、右花月公園から約三〇分走行した同郡月形町付近道路にさしかかった際、それ以前に吸入していた有機溶剤によって眠気を催し、その影響で正常な運転ができないおそれがあったのであるから、自動車運転者としては運転を中止して眠気を解消させてから運転を再開して事故の発生を防止しなければならない業務上の注意義務があるのにこれを怠り、前記状態のまま運転を継続した過失により、同日午後五時八分ころ、江別市角山一六八番地付近道路に至って仮睡状態に陥り、自車を対向車線に進出させ、折から対面進行してきた引頭智範(当時三二歳)運転の普通乗用自動車右前部に自車右前部を衝突させ、よって右引頭に対し、加療約一年一か月間を要する右大腿骨骨折等の傷害を、さらに同人運転車両の同乗者伴和美(当時三一歳)に脳挫傷、脳幹部損傷等の傷害を負わせ、これに基づき同年一二月六日午前一時三五分ころ、同市幸町二二番地谷藤病院において右伴和美を死亡するに至らせたものである。

なお、被告人は、本件犯行当時、有機溶剤であるテトラヒドロフラン、シクロヘキサノン及びメチルエチルケトンの蒸気吸入の影響により、心神耗弱の状態にあったものである。

(証拠の標目)《省略》

(法令の適用)

被告人の判示所為は各被害者についていずれも刑法二一一条前段、罰金等臨時措置法三条一項一号に該当するところ、右は一個の行為で二個の罪名に触れる場合であるから、刑法五四条一項前段、一〇条により一罪として犯情の重い伴和美に対する業務上過失致死罪の刑で処断することとし、所定刑中禁錮刑を選択し、右は心神耗弱者の行為であるから同法三九条二項、六八条三号により法律上の減軽をした刑期の範囲内で被告人を禁錮八月に処し、情状により同法二五条一項を適用してこの裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予し、訴訟費用は刑事訴訟法一八一条一項但書を適用してこれを被告人に負担させないこととする。

なお、弁護人は、被告人が本件犯行前に麻酔作用のあるテトラヒドロフラン、シクロヘキサノン及びメチルエチルケトンなどの有機溶剤を含有する接着剤「エスロン七〇」を作業上使用したため、右有機溶剤の蒸気を吸入し、本件犯行当時は有機溶剤中毒による精神障害のため、心神喪失の状態にあったと主張するので、検討する。

関連証拠によると、被告人は、本件犯行当日の午後一時三〇分ころから午後三時ころまで、樺戸郡新十津川町の花月公園内で噴水の配管取付け工事のため、一辺〇・九ないし一・二メートルの水中ポンプ槽内に入り、接着剤「エスロン七〇」を使用して塩化ビニールパイプの接着作業に従事し、この間右エスロンの有機溶剤で麻酔作用のあるテトラヒドロフラン、シクロヘキサノン及びメチルエチルケトンの蒸気を多量に吸入し、同日午後四時ころ普通貨物自動車を運転して右作業場所を出発し、三〇分程走行したころ、月形町付近にさしかかり、右有機溶剤の麻酔作用のため眠気を生じてあくびを数回し、運転席側窓ガラスを全部開けて外気を取り入れたが、しばらくしてこれを閉め、眠気をこらえて運転を継続したため、江別市角山町内において、遂に仮睡状態に陥り、本件事故を惹起したことが認められる。被告人は、当公判廷において眠気を覚えたことはないと供述するが、あくびをして窓ガラスを開閉したことは認めており、さらに第二回公判においては、出発して三〇分くらいして眠気を覚えた旨を認め、捜査段階においても第二回公判における右供述と同様の供述をしているのであって、その後の公判における眠気を覚えなかった旨の被告人の供述はにわかに信用できない。ところで、関連証拠によると、人の精神能力及び行動能力は前記有機溶剤の蒸気を多量に吸入した場合低下し、人が睡眠するに至ることがあることが認められるが、前記認定のとおり、被告人は仮睡状態に陥る前にその眠気を自覚していたのであって、しかも、これを解消するため一応の方策を講じていたことを考えると、被告人は、その仮睡状態に陥る前に右状態に陥ることを予想し、事故の発生を回避するため運転を中止すべきか否かの弁別能力及びその弁別に従って行為する能力を有していたことは明らかであるが、前記有機溶剤の影響により右各能力が著しく劣っていた心神耗弱の状態にあったと認められる。

よって、被告人が心神喪失の状態にあったとする弁護人の主張は採用しない。

なお、弁護人は、被告人が本件当時心神喪失又は心神耗弱の状態にあった場合運転中止義務が発生しない旨の主張をするが、被告人が心神喪失状態になかったことは前記のとおりであり、また判示のとおり、心神耗弱の状態のもとでも、被告人は一定の限度で判断能力を有していたものであるから、このような被告人に車両運転中止義務を課しうることは明白であって、弁護人の右主張も採用しない。(求刑・禁錮一年)

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 奥田保 裁判官 高梨雅夫 樋口裕晃)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例